神奈川、心の港からの出発
歴史研究家 江川継語
第一回
平成17年5月27日
「神奈川の若者達に知ってほしいこと」
このコーナーは、神奈川の若い人達、日本全国の若い人たちに贈るものである。ささやかながらも、人生を見つめ、勇気をもって生きることの大切さを伝えるために、歴史の真実を語り継ごうとするものである。
序文
日本の歴史を考える上で、神奈川は最も重要な地域といえる。倭建命の時代から、奈良、平安、鎌倉、戦国、明治維新と、常に大きな国家的変革の幕が開かれ、新しい時代のさきがけとなってきた地域である。
激動の時代を天駆けた、昇竜のごとき偉大なる祖先の魂は、今も尚、神奈川の空に浮遊し、海に潜み、河川、森林湖沼に棲息している。来るべき偉大な魂の登場を予兆し、混沌を正す真理の剣を研ぎ澄まし� �、未来を率いる若き指導者を待ち望んでいる。
このコーナーが目指すものは、神奈川の歴史の真実を明らかにすることである。こう言えば、「おいおい、おじさん何を今更、馬鹿なことを言っているんだよ」と、きっと歴史好きな人達は言うであろう。それでなくとも、インターネットには膨大な歴史関連サイトがあり、歴史研究書もまた途方も無い量である。義経の真実を考えるどころか、専門家や小説家は義経の心情まで繊細に物語り、戦いに感動し、死際に悲嘆する時代である。まことに、ありとあらゆる歴史情報で埋めつくされている。鎌倉に住んでいる古老なら、鎌倉時代のことなら何でも知っていると言うであろうし、子供達なら東大の日本史の試験で満点を取って見せると、せっせと塾通いをしているくらいである。� �くの若者達にとって、第一、本当の歴史がわかったところで飯が食えるわけがない。大学に入るための暗記中心の勉強でいいのだと口を揃えるであろうし、子供達は、項目列記の歴史教科書を覚えるだけでうんざりしているのに、自分で、研究したりする暇などない、と言うのが本音であろう。子供達に暗記をすすめることは、左右の思想を問わず、ちゃんとした説明ができないからである。
しかし、私は、実に厄介な性分を持っていて、皆さんよりはるかに子供のような心をもっている。歴史の教科書に限らず、何事も学べば学ぶほど首をかしげることばかりだからである。そこで、私は、このコーナーにおいて、皆さんに三つの特集を用意した。ひとつは、「その疑問とは何か」「神奈川や日本歴史の何が分っていないのか」の� �集である。次には、「日本歴史の真実」を追究した最新論文の特集である。そして、歴史の真実追究のための資料の確認と保存、及び配布である。これは、書籍、文献、施設のみならず、インターネット・リンク集も掲載する。 以下、そのタイトルを列記する。
特集1 「歴史の真実を追及する」
特集2 「論文集」(原則として有料公開とする)
特集3 「資料及びリンク集」
このコーナーは、ひとつひとつの歴史を、丹念に、科学的に分析し検討しようとするインターネット歴史研究所である。ここで述べられてゆく物事は、少なくとも、皆さんが、学校や小説で知っている日本の歴史とは、かなり異なっているであろう。いや、違いすぎて驚愕するかもしれない。しかし、ここで語ろうとしているものは、いまだに知 られていない多くの真実である。真実とは、動かしがたい事実を伴って現出する。多くの事実と整合してくるものである。偶然の事実というものは、この世に存在しないからである。突発的な事故や災害にも、必ずその原因がある。存在自体がまぎれもない事実だからである。目に見えない微小なる物、遠近なる物も、顕微鏡や望遠鏡、反応の結果によって、確認することが出来るのである。両親なくして、生まれてくる者はない。両親また、祖先無くして存在し得ない。これが「因果」という真実である。「親」「祖」、共に訓読みは「おや」であると、祖先たちは伝えている。
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源頼朝は、時代の原因、潮流があって、歴史に登場してきた人物であることは誰しも認めるところであろう。しかし、その幕府が、何故、鎌倉であったのか。その真の理由が皆さんにはお分かりであろうか。単に、成り行きや偶然で、鎌倉が存在しているのであろうか。この研究が成果を上げていないために、多くの歴史的事実を読み間違えてしまう結果となっていないだろうか。偶然なのか、それとも、明白な理由があるのか。当時の幕府が鎌倉という位置において成立した真の理由を求める必要がある。ここに鎌倉時代、ひいては神奈川県全体の歴史解明への重要な手がかりがあると述べておきたい。私は、その重要な手がかりのいくつかを持って� ��る。そして、鎌倉の真実を解明しようとする志をもつ研究者とともに研究を深めたいと考えている。
ところで、神奈川に縁の深い、倭建命(ヤマトタケノミコトと発音するのが正しい)や弟橘姫で知られる古事記の編纂者は太安萬侶であると、学校の教科書や歴史の書物には書いてある。また、古事記本文は、間違いのないものであるが、序文に関しては、太安萬侶が書いたものではないという議論は今も続いている。
ここで、歴史に興味のない皆さんには、古事記が自分と何の関係があるのかというかもしれない。しかし、神奈川の人達だけでなく、日本のふるさと、その在り処の全てがここにあるといってよい。山川草木や生物の名、神社の祭神、地名、旧国名、そして、氏姓の起源、名前、天皇制度、日本語、漢字、物語 、ありとあらゆるものの起源研究の起点となったものである。日本文明の根本となる書物である。子供達が学習する現代の日本語文法や古語文法は、古事記研究から出発し、仮に成立(まだ研究途上である)したものである。もし、日本の姓名と本籍をもって、日本語を話しているのが、自分であったとしたら、間違いなく、その自分を証明するものの重要なひとつが古事記である。日本の歴史を読み解く時、奈良、平安は言うに及ばず、鎌倉時代、江戸時代、明治時代、そして今日に至るまで、古事記の影響を受けていない時代、歴史は何ひとつないといってよい。
太安萬侶の墓は、戦後になって、奈良県の三笠山の山奥で山の斜面の茶畑を開墾していた人が、偶然、掘り当てたものである。現在は、訪れる人もない史跡であるが、 「古事記」は現存し、火葬されていた彼の遺灰も科学分析されている。これもまた、疑いようもない事実である。太安萬侶は、間違いなく存在したのである。墓域というものは、本人が願う場所に葬られるか、死後に見送る親族によって、先祖伝来の墓地や葬ってあげたいと思う場所である。心の中に祭り、家に祭り、寺社、教会に祭ってきたのである。前述したように、真実というものは、その事実の確定から始まる。このコーナーを読んでいるあなたは、まもなく、その埋葬地という真実の一端、驚くべき事実を目の当たりにすることになるであろう。
神奈川という名称は、明治維新後、神奈川湊という一地名から命名されたが、県域は、相武、武蔵、鎌倉、相模という地域割りの歴史的名称をもってきた。例えば、相模の国は、 7世紀、相武 (さがむ) 国造の領域と師長 (しなが) 国造の領域を合体して成立したとされる。しかし、一体全体、誰が、どのような基準でこの領域、境界を決めてきたのであろうか。もちろん日本全国の県境の歴史も同様である。この県境の歴史は古く、神代の時代の国生み神話から始まり、倭建命の時代(景行・成務)や奈良時代の国境の確定など、いずれも古代に定まった国と呼ばれていた頃の領域を、現在そのまま、各県の領域として踏襲しているものである。しかしながら、その領域の確定にいたる理由は、いまだに不明である。ましてや、旧国名にいたっては、その命名の根拠すら、国ごとに諸説があって、いまだ確定したものがない。例えば、武蔵の古名表記のひとつに「胸刺」があるが、当て字にしては、まことに妙な漢字を採用したものである。相武の国以後の、相模(相� ��)国にしても、「相」と「模」という漢字が採用されている。相似型と模型の概念を考えれば、これまた妙な当て字(?)である。何に対して相い模しているのであろうか。国名に当て字を使ったとするには、あまりにも不審である。奈良、平安時代の貴族は、私達をはるかにしのぐ漢字学を習得しているからである。戸籍や地籍という、人・社会・組織・国家に深く関わる問題が、かくも、初歩の初歩、基本中の基本がわからないまま、日本の歴史が語られているのである。
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しかし、「胸刺」も含めて、「相模」の表記は、実は正当な理由があるのである。これは、私だけが理解していることであり、近いうちに、公開論文として皆様に提示することにしたい。ヒントは「模」という漢字にある。これを徹底して洗うことである。そこから、神奈川の人なら、子供でも気がつく、重要な答えがあるはずである。
論文を前に、相模という名称について、少しばかり考えてみよう。11世紀、「相模」という名の女性歌人がいたことが知られている。平安時代の女流歌人の高峰と評された人物である。大江山の酒呑童子を退治した源頼光の養女といわれ、相模の守、大江公資の妻となったことから、夫の任地名を冠して� �相模の女房と呼ばれた。大江氏と相模、これには深い関係がある。この大江(大枝)氏一族こそ、菅家と同様、古代氏族、土師(はじ)氏を源とし、「江家」と呼ばれる、国家第一の文章道の名門であり、かつ、兵法、知略にたけた政治家でもあった。まさに、歴代、和漢学の英才達なのである。出雲、土師(はじ)氏は、皆さんご存知の前方後円墳に代表される、古代墳墓の構築、古代祭祀の継承者である。平安時代の儀式・政務の次第である「江家次第」を著した大江匡房の曾孫、大江広元が頼朝に呼応して、鎌倉に下向、幕府執事となって、鎌倉幕府を支えた立役者である。その功績によって多田源氏、八幡太郎義家の子孫が有していた、愛(あゆ)甲郡、毛利庄の名を襲名することとなる。後、この一族は、出羽の長井、寒河江( 現在の寒川の地名と関わっていることに留意)を領し、後、土肥実平(湯河原に発するこの氏族も重要である)の後退を期に、毛利長井氏は、備後安芸、越後佐橋の毛利氏と連なって、戦国時代以降の歴史の舞台に登場してくる。しかし、そればかりではない、この一族の血の流れは、森氏、林氏と関連しあいながら、日本の和魂の式次第、学問、教育、学閥を形成してゆくこととなる。
女流歌人「相模」を深く研究してもらいたい。夫の任地の名を、ただ偶然につけたと思っているようでは、日本の文明の「名」の本質がわかっていない証拠である。名は体を表す。彼女の生涯は、相模国の「相模」という概念を見事に具現していると、一度は信じてみることである。そうして始めて、「袖」の概念、「乙」の概念が、浮かび出てく る。更に進めば「相(あひ)」と「愛(あい・あゆ)」の概念、「甲と乙」の概念が見えてくるはずである。弟橘媛の「弟(おと)」は、「乙」であり、「音」と深い関連がある。大江氏の系譜は「音」という人物から始まっていることを見過ごしてはならない。彼女の櫛が流れ着いた、或いは、袖が流れ着いた海潮をさかのぼり、大江氏の流れをさかのぼり、相模川の流れをさかのぼるところに、「愛甲」の名がすけてくる。その不思議さは、やがて、更なる、その源へとさかのぼり、決定的な真実に行き当たるのである。ひとり、義経の行動ですら、兄に会うために相模の国を通り、その源を下るところから始まっている。「義経」という名は「九条家」という宮家が、都度、名づけたもののひとつであり、義経だけではない幾つもの� ��前をもっている。姿を隠していた義経が姿を現したとき、彼の名は「義顕」に変わっているのである。この九条の宮家、そして、縁の深い一条の宮家と大江氏の関係こそ、相模国の真の解明につながる重要なヒントである。また、「さがむの小野」の真実、鎌倉の源流、あるいは横浜に残る「浦島伝説」の謎を解く鍵となるであろう。
古事記、日本書紀編纂の時代、或る一人の女性が歴史に登場する。彼女の名は「犬養三千代」、すなわち「橘三千代」である。729年、天平元年、藤原麻呂が「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上するが、その瑞亀が捕獲されたのが、河内国古市郡である。この地こそ橘三千代の本貫の地であり、彼女の生涯は、住之江の「浦島子伝」の成立の時期と重なるのである。甲は亀の、乙は乙姫の象徴であ� ��。また、元住吉、日吉、そして、それを結ぶ線上の恵比寿、この記号は「武蔵国橘樹郡」の「橘」と密接な関係がある。すなわち、橘氏が祭神とする住吉三神、宗像三神、表筒男・中筒男・底筒男の三神という、渡海と航海の神がその正体である。大阪の住吉(住之江、墨江)神社は本住吉という名称を併せ持つが、昔の橘樹郡、東横線の元住吉にも、住吉神社がある。
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皆さんも聞いたことがあるであろう、「遠野物語」の故郷、岩手県遠野市には、六神石神社(かつての住吉太神宮)も、伊豆神社を起点として、同じ「住吉」の記号、祭神を持って配置されている。偶然ではない何かが、存在していることを気づいていただきたい。日本の物語は、ある重要な真実の歴史を伝えていることを忘れてはならない。「浦島」の地名は、保存運動によって命脈を保ったが、地名を保存するということは、いつか、真実を解明して、祖先の心を知るためである。それを知ろうとし、守ろうとする人々によって、その地名は、語り継がれて未来へと生きてゆくのである。町村合併の盛んな今、地名を残さないものは、国や祖先を愛していない何よりの証拠であることを肝に銘じていただきたい。
他� �から、たとえ移り住んできた者も、その地の神社に手を合わせ、祭りに参加してゆく。祖先は、残すべき理由、その名において、その人たちの命を守るのである。一所懸命の原点がここにある。
毛利台の団地に住む人は幸いである。東洋において最高の叡智をもった人々の居住した聖なる場所である。海老名の人は幸いである。真の国分寺の意味、その仏教の偉大な事実を未来に示すことが出来るからである。神奈川の全ての地域は、日本国家にとどまらない永遠の思想を、その懐に抱いている。金沢文庫に住む人達は、日本人のイザナキ・イザナミの両神を守っていることに気付いているだろうか。鎌倉の人達よ。鎌倉の自然をただ守れなどというのは、鎌倉人の恥じである。「自然」ではなく、世界に「法然」を伝えなければな� �ないからである。今日、私達、日本人が用いる自然という概念を表す漢字は、鎌倉時代の人は、一般的に用いなかった。用いたのは「法然」である。その真意を追及した僧「法然」は、その名を自らの名に冠して戦ったのである。「自然」という漢訳、そのもとになったサンスクリットによる言語の整備は、それ以前の自然に関する、二つの言語の違いを継承できなかった。文明の把握を咀嚼できなかったからである。西欧の言語学も、聖書翻訳から同様の問題にぶつかっている。ギリシァ語の「自然」を表す「フィジス」と「ナトウラ」の、二つの概念が、natureに、矛盾しながら、今日も存在している問題と同根の重要なテーマをかかえている。詳しくは、後日、述べていきたい。
名もなき私のような歴史研究家が、今、ようやく� �を開くときが来たのは、名声や私欲を得んがためではない。神奈川の歴史は神奈川人によって解かれなければならない、それも若い人達でなければならないと固く信じるからである。そして、若き魂が迷い、空虚な状態のままで、混沌、暗黒の将来に生きてゆく悲劇を見たくないからである。
私は、未来への、入り口を、ただ指し示すだけである。歴史は科学である。しかし、その科学は心の科学である。心なくして歴史はない。海のことは海に聞くしかない。山のことは山に聞くしかない。花のことは花に聞くしかない。聞こうとする心をもたない者に、その声は聞こえず、何物も、何事も答えてはくれない。歴史の真実は、自分の内なる「こころ」の声を聞くことによって開かれる。一度限りの「いのち」の大切さを考えることで� ��る。歴史は、心によって学び、心によって、自らの人生に生かさなければならない。
歴史と言うものは、単なる過去の出来事の羅列ではない。苦しみと悲しみとの狭間にあえぐ人々、それを救わんとして努力した人々の苦難の道の上にあって、今日も続けられている「心と行為の積み重ね」である。祖先たちが、谷を越え山道をあえぎあえぎ登って、ようやく運び伝えた貴重な大切なものである。その荷物をあけて、食い散らかし、あぐらをかいて、好き勝手をして暮らしているのが、現在の私達である。早く気付かなければならない。その荷物とは、私たち自身であり、私達の背には、子孫という重い荷物が背負わされているのである。
もはや、このままでは、未来の子孫は生きていけなくなるだろうということは容易に推察 される時代となった。事実,あらゆる今日的な社会状況はそれを証明している。少子化による高齢化社会、人間性の欠如、大量消費物の無謀な生産、廃棄とエネルギー大量消化、弱肉強食の階層差別、国家財政や地域経済の破綻など、これから始まろうとする暗く長い未来を暗示するものばかりである。まもなく日本は、今世紀中に数千万に上る未曾有の人口減少の時代が始まる。決して、予測ではない、確実な計算である。年金受給だけではない、今の若者達、子供達は、想像もつかない困難な時代を、まもなく生きてゆかなければならないことは明白であり、もう、今日現在から、必死になって手を尽くしても、間に合わない状況にあるのである。
「巷に雨の降る如く 我が心にも涙降る。(ヴエルレーヌ)」。世界中の街々に住む人々は、大通りを挟んで、左右に枝分かれする多くの小路に、身を寄せ合い、起居し、往来して暮らしてきた。その小路、裏通り、横丁、路地裏、それは、まさに、人々の人生そのものである。おはようございます、こんにちは、ありがとう、どういたしまして。おたがいさまですよ。がんばって。きをつけて。ごきげんいかが。どうなさいました。かわいいわね。ただいま。いってきます。おかえりなさい。生まれた場所も、起居し、学校に行き、会社に行き、嫁いでゆき、死に逝く時も、戦地から戻るときも、繰り返し、繰り返し往来する、狭い巷の路地内であった。肩に雨がそぼぬれて、涙にじむ街の燈り。出会いと別離、貧困と狂乱� �その隙間をうめるように、ほろ酔い加減の酔っ払いが千鳥足で歩く、歓声を上げて子供達が走り抜けていく。雑草と花と、唄と風が通り抜けてゆく道でもある。ちょっと小粋な小路もあり、生垣続く屋敷もあって、文人、貴人の名がつく小路もある。神奈川の街は、小路の町であった。行くも帰るも巷の内であった。
「秋の日のヴィオロンの ためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し(ヴエルレーヌ)」
異人の巷には、上田敏や堀口大学の詩句が、落ち葉のごとく、教会、墓地、酒場、街燈に舞いながら、そこかしこの石畳に、落ちてゆく。巷には、命のはかなさを美しく見せる心の情景がある。
「港」は「水+巷」、神奈川は、「川」と「湊」の国である。海原に出入し、天地に循環する雨は、峻険なる山々に降下し、源� ��となり、小さな水路となる。水路集まりながら中流となり、ゆるやかにたむろして、巷に憩う。その無数の網目のごとく張り巡らされた水路が、また集まって、ただ一本の大河となって海に下るのである。
源泉から、力を一点に結集し、供物を揃えて、母なる海に運ぶ。この概念を「湊」という漢字が表している。この大河入る一点の湊に、結集する群船あり。群船、また、世界に往来し、その力、天意たる「孔」の一点に結集して、出入し、世界の通路に飛翔する龍船となる。この概念を「港」という漢字が表している。「港・湊」は、河口に在って「みなと(水門・水戸)」の概念を創出する。河口に「洲(クニ)」ある理由である。河川の口は、「流(子供が頭を下に生まれる意)」すなわち「龍」の「口」である。龍は、口� ��「玉」という生命魂を含んでいる。この概念(體用の概念)を「国」という漢字が表している。玉は海竜が宿す「真珠(昔は鮑の真珠)」であり、全ての生命の根元を表すものである。伊勢、熊野、鹿島、多くの古社の御神体である。海と川は、大地を貫き、時を感じて新たな生命たる「玉」を出入する。供物(水運で運ばれる品)を与える女性は、河端にあって、生命の誕生、延命を祈り、機織によって暦を修正する。これを表すものが鎌倉時代の「御厨(みくりや)」である。伊勢外宮の真意である。全ての「流れ」に沿って、寺社があり、神奈川の心は在る。
北条政子が、水戸家と深いつながりがあることは、鎌倉の皆さんはご存知であろう。詳細は後に公開するのでお待ちいただくとして、これには深い理由がある。日本の� ��図を見てもらいたい。徳川御三家の位置は、全て河口にあって、一本の累系から生じている。その理由は、深い歴史の流れから生じているのである。河川なくして、全ての生命は存在し得ない。人間は、大地と海を循環し、井戸を掘って天地に往来することを知った。緯度経度の概念である。地図無くして、自己はなく、地図無くして、国はない。全ての存在、全ての歴史は地図に始まり、地図において終わる。このことを肝に銘じてもらいたい。存在とは、「時」であり、地図である。
漢字学者、藤堂明保氏は、「巷」について、こう解いている。「人のふせた姿+音符共」。「人の住む里の公共の通路のこと。共はまた、突き抜ける意を含むから、つきぬける小路のことと解してもよい」。藤堂明保氏が、好んで使う解説に、この「突き抜ける」という表現がある。この概念を中国の文明に求めるとき、私は、「孔」の哲学に行き当たるのである。これは非常に重要かつ根本の哲学に属するため、後日、解説することとして、代わりに、中国人が愛する庭園文化を通して、簡単に述べておきたい。中国人は太湖石が大好きである。太湖において産出する、丸い孔が開いて、すとんと突き抜けて、向こう側が見える石灰岩である。永久の歴史を経て、打ち寄せる波がしだいに浸� ��し、孔をあけ、形を微妙に変化させたものである。大自然の悠久の時がもつ力の偉大さに打たれ、そのゆったりとしながら、未来を導いてゆく姿を尊敬したからに他ならないと私は考えるのである。ひともまた、小さなさざ波と同じである。か弱い力でも、共に力をあわせていけば、いつの日か未来の先が見える道へと延びていく。平和な時代へと突き抜けてゆく。その思いを「港」に託して、このコーナーを続けることが出来たら、幸いである。名もなき庶民の知恵と勇気、命の限りにおいて、この「みなと」から旅立てる日のあらんことを、心から祈るものである。
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